指定文化財(国指定・県指定・市指定)
和光市にはたくさんの文化財があります。
数ある文化財のうち、とても「貴重なもの」・「歴史的価値が高いもの」で、「地域の特性・特徴を兼ね備えたもの」は、和光市文化財保護委員会の審議を経て、和光市教育委員会が「和光市指定文化財」に指定しています。
※2020年3月10日付け官報号外第45号の告示により、2013年4月25日に和光市指定文化財に指定された「午王山遺跡(史跡)」を含む13425.24平方メートルの土地が、「午王山遺跡」として文化財保護法第109条第1項に基づく国指定の史跡に正式に指定されました。
このため、和光市文化財保護条例第7条第2項の規定により、同日(2020年3月10日)付けで和光市指定が解除されました。
※2018年2月27日付け埼玉県教育委員会告示第6号により、2017年3月31日に和光市指定文化財に指定された「午王山遺跡発掘調査出土の弥生時代遺物」107点を含む、計121点の遺物が「午王山遺跡出土品」として埼玉県指定有形文化財に指定されました。
このため、和光市文化財保護条例第7条第2項の規定により、同日(2018年2月27日)付けで和光市指定が解除されました。
2020年3月10日現在、国指定文化財(記念物・史跡)が1件、埼玉県指定文化財が1件、和光市指定文化財が14件あります。
個人の方が所有しているものが多く、皆さんに見ていただける機会も少ないため、こちらでご紹介します。
国指定文化財(1件)
写真・名称 |
指定年月日 |
説明 |
|
2020年3月10日 |
午王山遺跡は、荒川を臨む独立丘陵上に位置する主に弥生時代中期後半から後期後半までの集落遺跡である。弥生時代後期には大規模な環濠集落として展開されていたことが明らかになっている。
出土土器には、中部高地(長野県・群馬県)系の岩鼻式土器、南関東系の久ヶ原式土器、東海東部(静岡県西部天竜川以東地域)の系譜を持つ土器の3系統が確認されており、また、銅鐸形土製品や土鈴、帯状円環銅釧などの祭祀品も検出していることから、南関東を代表する弥生時代の集落遺跡といえる。 |
埼玉県指定文化財(1件)
写真・名称 |
指定年月日 |
説明 |
|
2018年2月27日 |
出土した遺物は、中部高地地域や東海地域からの影響を受けており、貴重な考古資料である。 |
和光市指定文化財(14件)
※注意事項※
「百庚申」は風化により倒壊の恐れがあることから、立ち入りを制限しております。ご理解くださいますようお願いいたします。
写真・名称 |
指定年月日 |
説明 |
【有形文化財 考古資料】 |
1958年11月27日 |
西暦1922年(大正11年)5月27日、現在の白子小学校より敷地整理のため畑地掘削中、地下1.2mの土中に2個並んでいるのが発見された。 |
【有形文化財 工芸品】 |
1959年7月13日 |
和光市に現存する金工芸品として最も古いもので、1571年(元亀2年)河村弥二郎より福田山東明寺へ寄進され、観音堂に長く用いられてきたもの。 河村弥二郎は後北条氏の家臣で、現在の下新倉あたりに領地を持っていた。 |
【有形文化財 工芸品】 |
1959年7月13日 |
資材は、鉄、黒皮、綿布、小鉄板、鎖、座金等を使い、頬当、のど鎧、そで鎧、大腿鎧、腕当、腰当からなっている。8枚張りの鎧は、梵字が打刻され腕当に、鉄板と細目の鎖が継いである精彩な工芸品である。室町時代末期の作といわれている。 |
【有形文化財 古文書】 |
1959年7月13日 |
江戸時代、白子村の名主の家に伝わる古文書。水帳、検地帳など、当時の石高の様子が分かる史料である。 中でも、「永代地方目録覚」には、江戸時代の白子村が徳川家康に従って伊賀から移り住んだ伊賀衆の領地であったことが記されており、貴重な資料である。 |
(じかたもんじょ) 【有形文化財 古文書】 |
1959年7月13日 |
指定文化財として寛永・寛文年間の水帳・検地帳。 検地帳は、村の総地籍・総石高が記されている、当時のもっとも基本的な土地台帳の一つだった。 宗門人別帳は、江戸時代のキリスト教禁止と関連して、住民の宗旨を記したものである。 |
【天然記念物】 |
1959年7月13日 |
長照寺の境内にある大いちょうで、幹廻り7.53m、樹高29m、樹齢推定700年という県下有数の大木である。秋の黄葉は一段と見ごたえがある。 |
【無形文化財 民俗芸能】 |
1959年7月13日 |
江戸中期(享保年間)下新倉地区の農民の間で豊年祝い、厄除け、安全祈願など、当時の素朴な生活から生まれ、強い信仰心によって支えられて今日まで伝承されている郷土芸能である。 |
【有形文化財 民俗資料】 |
1964年4月13日 |
ささら獅子舞のおり、使用する太鼓である。太鼓の皮を張り替えたとき、1735年(享保20年)の年号を確認している。左から大獅子、中獅子、女獅子の太鼓。 |
【有形文化財 歴史資料】 |
1969年10月4日 |
江戸時代の下新倉村領主(旗本)酒井壱岐守忠重夫妻の墓で、川越仙波より移された。五輪塔の高さは3.85m、礎石1.70m下段より方形、宝珠形等の五形を積み重ね、地・水・火・風・空の五文字が、宇宙五大部を意味している。 |
【有形文化財 民俗資料】 |
1969年10月4日 |
江戸中期から、明治中期にかけての庚申塔で、地元や近郷信者より寄せられ、135基ある。立派な百庚申も同時に建立、当時の東明禅寺第16代貞州和尚の指導で集められた。当時の庚申信仰の隆盛がしのばれる。 |
【無形文化財 民俗芸能】 |
1981年10月1日 |
天保時代の初期、白子宿の柴崎音五郎が健全な青年の育成のために、当時、江戸一番の笛の名手三喜を師匠に迎え、弘化・安政・文久年間と隆盛し、現在へと引き継がれている。 |
【有形文化財 建造物】 |
2003年11月3日 |
旧冨岡家住宅は、江戸中期(17世紀後半)に建設されたと考えられ、規模も当時の民家のなかで大きい。東京外環道建設にともない解体され、新倉から下新倉2丁目へ移築復元。埼玉県下で最古の部類に入る民家といわれている。 |
【有形文化財 考古資料】 |
2007年7月1日 |
昭和54年に行われた午王山遺跡第一次調査の時に出土した板碑群。和光市において板碑が一括して出土した例は初めてであり、人為的な投棄・廃棄ではなく、出土状態から板碑の造立位置が推測できることから、中世の板碑研究における重要な考古資料である。 |
漆台遺跡第1号住居跡出土須恵器円面硯及び伴出遺物 【有形文化財 考古資料】 |
2011年4月28日 |
漆台遺跡第1号住居跡から出土した遺物は、須恵器円面硯をはじめ須恵器坏蓋・須恵器椀・須恵器壺・須恵器甕計14点(破片を含む)で、平安時代の9世紀第2四半期末~9世紀第3四半期と考えられる住居跡から出土している。付近の花ノ木遺跡からは、平成7年に埼玉県有形文化財指定(考古資料)に指定された「花ノ木遺跡住居跡出土遺物」として、須恵器を主体とする多量の土器や火熨斗、倉庫の鍵等の道具類が出土しており、それと関連して平安時代新羅郡の官人の居住を示す考古学的成果と捉えられる。 |