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新倉を愛した道路村長さん~鈴木左内翁~

2017年08月16日 11時30分

平成21年3月28日(土曜日)、新倉ふるさと民家園で「新倉を愛した道路村長さん~鈴木左内翁(すずきさないおう)~」と題した講演会が行われました。

講師は元和光市教育委員長の鈴木勲二(すずきくんじ)さん。明治28年(1895年)から昭和14年(1939年)に新倉村(現在の和光市)二代目村長として活躍された、鈴木左内氏の人柄と活躍を、当時の和光市の様子を織り交ぜながら話してくださいました。

 

(撮影:まちの見聞特派員 足立惠一)

講演を行う鈴木勲二さん
講演を行う鈴木勲二さん

  講演会場の様子
会場は新倉ふるさと民家園内の古民家

 

講演の内容から

新倉村の成立

江戸時代このあたりでは、上新倉村(かみにいくらむら)・下新倉村(しもにいくらむら)・上白子村(かみしらこむら)・下白子村(しもしらこむら)があり、明治22年(1889年)に新町村制の施行により、上白子村と下新倉村が合併し白子村となり、上新倉村が新倉村となったこと。昭和18年(1943年)に白子村と新倉村が合併し大和町となり、昭和45年(1970年)に和光市になった。

23歳の村長

新倉村の二代目村長として、鈴木左内が登場したのは明治28年(1895年)5月1日。当時彼は23歳の青年村長であった。

当時は、制限選挙制の村会議員による間接選挙で、昭和14年(1939年)7月28日までの11期44年間にわたり村長を務めた。当時の村長職は無報酬であった。

村長在任中は、地域の農業改良を始めとし、村の発展のための様々な事業を成し遂げた。「にいくら駅」の開設を始め、現在の本町どおりにある郵便局の設置に協力、新倉牛蒡(にいくらごぼう)の品質改良と関西方面への販路拡大を試みるなど、多くの功績を残している。

その中でも、村の発展のため信念を貫いて実行したのは、基幹道路事業であった。

基幹道路の整備と駅の開業

明治43年(1910年)年に、荒川が氾濫し大洪水が起こったことの反省から、基幹道路の浦和・新倉道(現在の駅前とおり)の拡張と整備こそが地域を発展させる重要な事業だという固い信念を持つようになった。彼の信念の強さは、昭和11年(1936年に生まれた初めてのうち孫に「道子」と名づけたことでも示されている。

大正11年(1922年)には2間(3.6m)幅の通であった浦和・新倉道を15m幅に拡張するための第1期工事が行われ、川越街道から柿の木坂間(現在のいなげやストアー)が完成した。

続いて、大正15年(1926年)には、第2期工事として、柿の木坂から下井戸間(現在の坂下ショッピング)が、昭和7年(1932年)には、第3期工事として下井戸から大野前(現在の荒川堤防)間が完成し、総距離2,840mに及ぶ基幹道路の拡張を成し遂げた。

これらの工事は、山坂を削って平らな道路を建設する難工事であり、県からの補助金も少なく、土地の買収に難色を示す地主もいて、様々な困難があった。にもかかわらず、完成を成し遂げた裏には、単に左内翁の信念と行政手腕だけでなく、拡張に要する土地で自分の所有地にかかわるところは無償提供するという、村の発展のために無私になって尽くした左内翁の心が大きく働いていた。

以後、今日に至るまで、この道路は地域の大動脈となって、地域の発展に大きく寄与している。そのため、地域の人々は、左内翁をいつしか「道路村長さん」と呼ぶようになったのである。

 

参考文献:鈴木勲二著「道路村長さん 鈴木左内-その事業と想い出」(さきたま出版会 平成9年発刊)

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